"Chihiro"

この時期に毎年かならず訪れる場所があります

上石神井にある「ちひろ美術館」です

今年はお誕生日の翌日、6日に行ってきました



ブログでも何度か書いたかもしれませんが
わたしの名前「ちひろ」はいわさきちひろさんからとったもの

彼女の絵はもちろん、存在そのもの、そしてこの美術館は
歳を重ねるにつれ、わたしの中でとても大きな支えになっています


・・・と書くのも、変なことかもしれませんが

美術館という公共の場であるのにも関わらず
そこはわたしにとって自分だけの秘密の場所のように思えるのです


毎年足を運ぶそのたびに感じることは様々なのですが
(展示も異なりますし)
その日は不思議なお天気模様が手伝ったのか、そうでないのか
なんだか今在る社会と時間から切り離された気分になりました

おおまかに言うと、ですが



ちひろさんの描く画は、どれも時間を超えているようで
それでいてとても貴重な一瞬をとらえているようでもあります

それはこどもの瞳や手、キャンバスの向こう
永遠に失うことがないのだろうと思わせるその草花の色彩や
動画を見ているかのように飛び回る動物たち
重なり合う色とりどりの空、海、そして町並みに表れています

時間は動いているようで、止まっていて
色はモノクロのようで、淡い色でいっぱいです




なぜそう見えるのか、よくわからなかったのですが

たぶんそれはすべてちひろさんの世界ではなく
自分の今まで歩んできた道が投影されているからなのかな、と

ぼんやり、そんなふうに思いました


例えば有名な西洋絵画を見ても
自分の生に結びつけるほどの想像力を私は持ち合わせていませんが

ちひろさんの世界は、見る者の(少なくとも私の)
ささやかな喜び、ささやかな悲しみ、ささやかな怒り、
そういう人生における、とてもプライベートな部分のささやかな想いに
優しく触れてくれる気がします



様々な年代の人が、思い出に残る作品をリクエストする
「わたしのちひろ展」という展示が今回あったのですが
作品とともに、それに対するメッセージや想いも飾られていました

10歳のこどもから、30代のサラリーマン、70代のおばあちゃんまで
様々な人がちひろさんの作品への思い出を綴っているのを見て
みんなわたしと同じように、誰かの人生を重ねているのがわかりました

自分のこどものときを重ね
自分の娘を重ね
自分の息子を重ね




わたしは、誕生日だったということもあり

作品に写る母や父の像に
自分の両親を重ね合わさずにはいられませんでした


母になったこともないし、父になったこともありませんが
ひとつひとつの表情や指先や背中に、それはぴたっと合わさり

私が知るはずもない彼らの苦労や喜びが
ちひろさんの画から溢れ出ているような気がして

申し訳なさと情けなさとどうしようもなさと
そして感謝の気持ちが全部胸の中でぐちゃっとなったのを感じました





『人はよく若かった時の事を、特に女の人は娘ざかりの美しかった頃の事を
何にもましていい時であったように語ります。

けれど私は自分をふりかえってみて、
娘時代がよかったとはどうしても思えないのです

といってもなにも私が特別不幸な娘時代を送っていたというわけではありません。
戦争時代のことは別として、私は一見しあわせそうな普通の暮しをしていました。
好きな絵を習ったり、音楽をたのしんだり、
スポーツをやったりしてよく遊んでいました。

けれど生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、
なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、
なにごとにも付和雷同をしていました。

思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。


ですからいくら私の好きなももいろの洋服が似あったとしても、
リボンのきれいなボンネットの帽子をかわいくかぶれたとしても、
そんなころに私はもどりたくはないのです。

ましてあのころの、あんな下手な絵しか描けない自分に
もどってしまったとしたら、これはまさに自殺ものです。

もちろん今の私がもう立派になってしまっているといっているのではありません。
だけどあのころよりはましになっていると思っています。

そのまだましになったというようになるまで、
私は二十年以上も地味な苦労をしたのです。

失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、
少しずつものがわかりかけてきているのです。

なんで昔にもどれましょう。

少年老いやすく学成りがたしとか。
いても学は成らないのかもしれません。

でも自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、
不思議なことだけれどこの世の中の生き甲斐なのです。

若かったころ、たのしく遊んでいながら、
ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。

親からちゃんと愛されているのに、
親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。


いま私はちょうど逆の立場になって、
私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、
めんどうな夫がたいせつで、
半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。


これはきっと私が
自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。

大人というものはどんなに苦労が多くても、
自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。』




いつまでも大事にしたいです


*Chihiro*

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